3.11を忘れない

サロンメンバー限定記事

あの日、僕は大会のスタッフとして富士川の河川敷にいた。激しい揺れが長く続き、身の危険を感じた僕らは芝生の上で円盤を追いかけていた選手を防波堤の上に誘導し、僕たちは“ガラケー“と呼ばれていた小さな画面を、テントが倒れてこないように支柱を支えながら見つめていた。

小さな画面からでもことの重大さがはっきりとわかった。けれども、どうしていいのかは全く分からなかった。とりあえず、試合は中断し、選手たちにできるだけ早く宿に戻るようにお願いし、僕らも宿に戻ってこれからのことを相談することを決めた。

宿でテレビをつけると日本中が大変なことになっていた。妻に電話しても繋がらない。家にかけても繋がらない。シャワーを急いで浴びながら、「大変なことになった」「家に帰ろう」としか思い浮かばなかった。

大会は中止。チームの代表者に連絡し、自分たちも翌朝に大会の撤収をし帰路につくことになった。その夜にようやく妻と話ができた。全員無事だと知って緊張が少しほぐれた。

撤収を素早く終え、帰路に。そのあたりの記憶がない。覚えているのは、首都高速から東北道へ入るときに、自分たちの車が通った後に首都高速から東北道の入り口が閉められたことだ。あと30分遅かったら自分たちは帰れなかったかもしれない。

車を運転していた吾妻くんが国道4号線の裏道を知っていたことも幸運だった。東北道の安全性や混乱を考えて、彼は下道、それも国道4号線も混乱しているだろうからその脇道を行こうと話していた。

おかげでほとんどノンストップで自宅まで来れた。普段4時間程度で済むところを7時間かかったが、家の灯りが見えた時には安堵した。

自宅に戻り、家で見たテレビの映像は今でも忘れることができない。福島第1原発の事故である。

起きてはいけないことが起きてしまったのだ。

次の日、雪が降った。反射的に子どもたちに外に出ないように話した。放射能が怖かったからだ。チェルノブイリの二の舞になってはいけない。子どもたちを放射能から守るのだ。大学で物理学を学んだから放射能の怖さは知っていた。体に蓄積していく放射能は数十年たってからでも影響がある。忘れたころにガンや白血病になった症例を知っていた。

僕が住んでいる下郷町は福島県でも放射線量の値が少ない場所だ。関東よりも少ないかもしれない。それでも当時はほうれん草から既定値を超えるセシウムが検出され、農産物の出荷はもちろん山菜、きのこ、猪などの野生動物を食べることも禁止された。

農業で生計を立てようとしていた僕らには別の厳しい現実もあった。お客様が半分以下になってしまったのだ。西日本のお客様は1人だけになってしまった。

その当時の福島のものを食べない選択は当たり前のことだったと思う。危険は誰だって避ける。僕だってそうしただろう。実際、自分たちが育てた米やリンゴから放射能が検出されたら農業はやめるつもりでいたのだから、出てもおかしくはないと自分でも考えていたのだろう。

あれから10年。毎年収穫の時期になると実施されてきた米の放射能検査も全袋検査から標本調査に変わった。これまでのデータの蓄積が安全を証明してきた。これからも農業は続けられそうだ。

お客様も徐々に戻ってきてくれている。本当にありがたいことだ。さらに嬉しいのは子どもたちのおかげで増えていることだ。世代が変わりつつある。

先日長男を南相馬市にある馬事公苑のディスクゴルフコースに連れて行った。国内屈指の本物のディスクゴルフコースを体験してもらうためだ。途中、立ち入りが制限されている箇所を通った。彼は一言も発せず震災から時間が止まった車窓を見ていた。

あの日から10年。震災とは関係ないけれども親友の死にも立ち会ってしまった。時間と親友を失って、自分は何ができるのか。考えることさえも避けてきたけれども、先日の息子を南相馬に連れて行ったことでわかった。

繋ぐことだ。

記憶を繋ぐ。思いをつなぐのだ。

これまでずっと自分が何ができるかばかりを考えてきたけれど、そんな大きなことを考えずに、次の世代につなげることをしたらいい。良し悪しや儲かる儲からないとかではなく、事実を伝える。判断は彼らに任せたらいい。

いなくなってしまった彼らの思いを伝えたらいい。したかったこと、してほしかったこと。して良かったこと、悪かったこと。そんなことを伝えられたらいい。そして彼らが感じてくれたことを彼らはきっと形にしてくれるだろう。

いや形にしてくれなくてもいい。次の世代に繋いでいってくれるだけでいい。

福島を語ることをずっと避けてきたけれど、10年たってようやく前に進める気がした。

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